カープにはこれまで数々の外国人助っ人が海外からやってきました。
数年活躍する選手もいれば、一年で日本を去る選手もいました。やはり助っ人ですので、一年目から結果がでなければ、そこでクビを切られてしまいます(高い契約金と年俸を払っているので当然です)。
ちなみに第一号(日系人を除く)は1972年、キューバ出身のソイロ・ベルサイエス。
カープに始めて入った外国人はキューバ人とは意外ですね。
これまで一軍登録選手は100人を超しています。
いきなり結果を求められることに加えて、不慣れな日本生活も影響してか、外国人プレーヤーが日本で活躍するのは思ったよりも大変です。
しかし、そんな中でもカープで最高に活躍した助っ人はちゃんといます。
そこでカープ最強助っ人外国人は誰かというのをランキング形式で紹介したいと思います。
打者編と投手編に分けています。
まずは打者編です。
カープ最強外国人助っ人は誰だ! ― 打者編 ―
打者は投手より日本の野球に慣れるのは時間がかかると言われています。日本人の投手は外国に比べて、コントロールもよく、ストライクで勝負せず、変化球も多彩な投手が多く、打者にとって、投手の配球や癖などを見極めるのは一苦労のようです。
そんな中でも一年目から活躍した選手もいます。そんな選手ベスト5を紹介します。
第5位 リチャード・ランス(Richard Anthony Lancelotti)
えっ!ランスが5位!?
他にもいるでしょ!?とお思いの方もいると思います。
でも、ゴメンなさい。管理人はランスファンなんです!
ランスをどうしても紹介したい・・・・・との思いで、第5位にしてしまいました(-_-;)
本当は、7~10位くらいかなって思ってます。ラロッカ、シーツ、シェーン、ディアスあたりには負けてるかも・・・。
では、そのランスというと、
山本浩二引退を受けて長距離砲として獲得したのがランスです。本名は、ランセロッティみたいですけど、長いという理由で、登録名はランスになったとのことです。
どういった人かというと、管理人プロフィールに詳しく書いています。
ぜひ読んでみてください!
1987年のホームラン王ですが、カープ外国人で初のホームラン王に輝き、エルドレッドが2014年に獲得したのが、カープ史上二人目という、けっこうすごい記録なんですね。
第4位 エイドリアン・ギャレット(Adrian Garrett)
カープ外国人初の40本塁打選手。シェーン、ホプキンスが去ったあとにライトルと共にやってきましたが、とにかく打ちまくりました。
1978年史上初シーズン200発打線に貢献し、この年ホームラン王までもう少しというところまでいったが、残念ながら手が届きませんでした。
4月に当時月間記録の16本塁打を放ち、25試合目で17本の本塁打を記録。プロ野球の最速記録を更新していたが、後半失速してしまい、本塁打王を逃してしまいました。
しかしオールスターでは広島市民球場で1試合3本塁打、しかも全て特大の一発でMVPを獲得したという一発が魅力の長距離砲でした。
第3位 ゲイル・ホプキンス(Gail Eason Hopkins)
カープ初優勝の立役者。1975年10月15日後楽園での巨人戦、1-0と緊迫した試合の中で、9回にリーグ初優勝を決める3ランを放ち、この一発は今でもよく語られています。
この年打率は.256だったが、33本塁打、91打点、翌年打率.329、20本塁打、69打点とカープのクリーンアップになくてはならない存在でした。
メジャーリーグを引退して後、医師になるつもりで医科大に進む予定だったが、ルーツ監督の熱心な誘いでカープ入りを決めた異色の選手。
試合と練習の合間に医学書を読んだり、広島大に足しげく通い実験をこなして球場に出向いた時期もあったとのこと。
カープで2年を過ごし、その後南海で1年プレーして引退しました。今は病院を開業し整形外科医として活躍しているそうです。
第2位 ジム・ライトル(James Lawrence Lyttle Jr.)
総合力ではカープ史上最高の外国人選手と言われています。入団1年目から、衣笠・山本とクリーンアップを形成し、1979年、80年と日本一連覇に貢献。80年の日本シリーズでは打率4割、3本塁打、6打点でMVPを獲得。
打撃だけでなく守備でも強肩ぶりを発揮し、4年連続でゴールデングラブ賞を獲得している。1983年に南海に移籍し、1シーズンプレーし、帰国。帰国後は農場経営を務める傍ら、フロリダ・アトランティック大学でコーチを務めたりもした。
カープ在籍年が6年と長く、故障もなく、すべての年にほぼフル出場し、1978年から3年連続全試合出場、500打席以上とカープになくてはならない選手でした。
「ライトライトルライトフライとる!」なんてのも流行りましたね。
第1位 ルイス・ロペス(Luis Antonio Lopez)
1996年広島カープに入団。キャンプでは、スイングの軌道が安定せず、不安視されていたが、山本一義打撃コーチがスイングを矯正したところ、打撃が開眼。
打撃スタイルは、広角に打ち、ランナーを確実に返すバッティングをするタイプ。勝負強くしぶといバッティングで、外国人バッターにしては三振も少なく、ミートができる打者で広島のビッグレッドマシーンの一員として活躍します。
「個人タイトルよりもチームが勝つために仕事をしている」と常々、口にするなど、チームプレーに徹するところも好感が持てます。
1996年から2年連続打点王に輝きます。これは、助っ人外国人で初年度から2年連続打点王は今のところロペスただ一人です。
97年には最多安打のタイトルも獲得します。
しかし、97年シーズンオフに契約問題がこじれてしまいます。広島球団のチーム事情を考えれば(要するにお金がない)、致し方ありません(>_<)。
3年連続打点王の偉業達成はならず、ダイエーに移籍します。ダイエーも小久保の代わりになる選手を探していたので、ちょうど合致したところなのでしょう。
ダイエーで1年プレーし、99年はアメリカ独立リーグでプレーした後、2000年長打力不足に悩む広島と再契約。
シーズン途中でしたが、 93試合に出場し打率.313、本塁打20、打点88と96~97年シーズンに劣らない成績を残しました。
この93試合で打点88はかなりの好成績です。フル出場していたら130打点程度の記録になります。
2001年も同様に活躍し打点も再び100の大台に乗せました。
そして2002年シーズン開幕前、個人成績の目標を聞かれ、なんと「ホームラン56本、打点160、打率.350」と言い放ったそうです。
半分冗談のような気もしますが、ロペスなら打点と打率なら近い数字まで行くのでは・・・、とちょっと期待してしまいますね。
しかし2002年開幕直後の4月6日中日ドラゴンズ戦、前田智徳の走塁に激高しベンチ裏で詰め寄る騒ぎを起こして2軍に落とされ10日間の謹慎処分を言い渡されました。※1
その後1軍に復帰し前田とも和解したそうですが、モチベーションの低下から打撃が急降下しシーズン途中で解雇されてしまいました。
ダイエーにいた年を外すと、広島時代の5年間の平均が、
115試合、本塁打22、打点88、打率.305
と打撃3部門だけでも、文句なしの成績です。
カープ史上最強の助っ人と言っても差し支えないと思います。
※1 暴行事件
カープ史上最強助っ人のロペスの経歴に汚点を残してしまったこの暴行事件ですが、詳しく記載します。
2002年4月6日中日ドラゴンズ戦、8回裏、2塁にいた前田がロペスの中前打でホームに帰ってこず3塁でストップ。これにロペスは両手をあげ、明らかに不満の様子でした。続く打者のヒットで2人がホームインした直後にベンチ裏で、ロペスが前田につかみかかって突き飛ばした・・・という経緯でした。
たしかに、どういう状況であれ、暴力はいけません。しかも仲間うちで。10日間の謹慎処分で練習の参加も認められないという処分は致し方ないかと・・・。
しかし、ロペスの側から見たときに、実はこの8回裏以前に布石がありました。
2回裏、2塁打の前田をおいて、ロペスが中前打と8回と全く同じ光景で、前田が3塁ストップ。
2回に続き8回も全く同じ。「どうして走らないんだ!」と怒るのも無理もない。前田が足に爆弾を抱えていたとしても、プロである以上、走塁も大事。小雨でグラウンド状態が悪かったというのは言い訳にもならない。
しかも、助っ人外国人であれば、成績に応じてのインセンティブもあり、普段は「チームプレーに徹する」と言っていたとしても、打点がつかなかったことに不満があったのも事実だと思います。
その後、前田とロペスは話し合いを持ち和解したということですが、ロペスのモチベーションは明らかに下がり、前田はこのことに対して多くを語らないそうです。
まとめ
打撃ベスト5いかがでしたか。自分が応援している選手が入っていないとか、ほかにもいるはずだと思われている人がいるかもしれませんね。
ロペスとライトルは遜色ないかなぁと思ったのですが、総合的に判断してロペスを1位にしました。
それにしても、1970年代に獲得した、シェーン、ホプキンス、ギャレット、ライトルってかなり当たりが続いてますよね。
しかし、近年では、バッターではエルドレッド以外は不作の年が続いているような気がします。あっと言わせるバッターが出てきてほしいですね。
※順位はこの記事を書いた2017年8月20日時点での順位です。